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onga yuumiは誰?ということをご紹介しているシリーズ。
初めての就職と、遅い反抗期
4年間の学生生活を終えて、晴れて国家試験にも無事合格することができました。
あんなに沖縄に帰りたくて、仕方なかったのに。まさかの岡山県で就職しました。
私の一番の理解者となっていた親友ともっと一緒に過ごしたいという気持ちもありました。
でも、一番の理由は学校が終わったらすぐに沖縄に帰ってくるようにと親に言われていたからです。
遅い反抗期ですね。
今まで中高部活もして、牛小屋も手伝って、看護師目指して、親を安心させようと思い真面目に頑張ってきました。
でも、もう親の言うことなど聞くもんか。私はロボットじゃない。
という反抗心で、そのまま岡山市内で就職しました(笑)
そんな気持ちもありながらもちろん、両親への感謝の気持ちもあります。
進学、生活費援助、しかも他の兄弟の学費も払いながら、必死に頑張ってくれた両親を尊敬しています
。
クラスの友達は他県から来ている子も多くて、ほとんど地元の帰って就職でした。
帰っていく、みんなの姿がとても羨ましかったです。
そんな気持ちで就職したので、就職先は適当に決めました。
そこからが、本格的にまた辛い人生の始まりでした(笑)
食べることが大好きでダイエットも三日坊主だった私が、新人看護師になりいつのまにか痩せていきました。
先輩や上司との人間関係で悩みました。
仕事もプライベートも人生で一番底辺だった一年間でしたね。
新人時代、有給休暇という言葉すら、私は知りませんでした。
看護師の退職は大変です、「あなたを次の病院で働けなくしてやる」と師長に脅されながら、面談を繰り返してやっと、退職の許可をもらいました。
無事退職して、沖縄に帰りました。
戦って手に入れた退職と、やっとの岡山県脱出、息切れしてスタミナ切れの状態でした(笑)
清々しい気持ちで沖縄に帰りました。
忘れられない岡山県
岡山県は私にとっては、忘れられない土地です。
ここでは岡山県での看護学生としての私について語りましたが、プライベートは楽しもう!!と積極的にいろんなことに挑戦する私もいました。
音楽が好きだったので、ヒップホップダンスのスクールに通っていました。
看護師になった後は、仕事終わり23時頃から、ダンスチームの友達と集合して車庫で練習したこともありました。
初めて組んだダンスチームはとても嬉しかったです。
ダンサーは仕事が終わったあとの深夜練が当たり前で、一瞬でもダンサーとして活動できたことも貴重な体験でした。
今でも音楽を聞きながらウォーキング、料理をすることが好きです。
でも岡山県に住んでいた当時は心のどこかで消えない「沖縄に帰りたい」という思いがあり、岡山県のことをもっと知りたいという気持ちに欠けていました。
もっと積極的にいろんなところに旅行にいったり、四国回ったり旅をしていればよかったと、大人になった今では後悔している部分もあります。
沖縄に住んでいたら経験できなかったことをたくさん経験しました。
どこに行くにも楽しい自転車生活、桜が舞い散る所をみて感動したり、いつも近くにいる友だち。
数え切れないほどの青春の日々であったことも確かです。
沖縄での幸せな生活
沖縄に戻り、看護師として働き初めて思ってことは「沖縄最高!!」です。
やっぱりうちなーんちゅの看護師さんとは働きやすいです。
仕事だけでなく、人生は人間関係が一番大事だということに気が付きました。
何事も、人と人のつながりです。
沖縄の看護師さんは優しい人が多く、お年寄りが好きな方が多いです。
かわいいおじーおばーが入院してくると、看護師間ではすぐにその噂は広まります。
「◯号室のおばーちゃんかわいいよ!癒やされる〜〜」とすぐに大人気になります。
かわいいおじーおばーの受け持ち担当になれたら嬉しいです。
毎日仕事に行くのも楽しみになります。
嫌なことや、腹が立つことがあるとスタッフ同士で「聞いて下さいよ〜〜」と愚痴をこぼしたり、笑い話しにすることでストレスも軽減することができました。
嫌なことも、誰かに打ち明けると、笑顔の楽しい話に変わります。
私はスタッフとのお喋りが大好きでした。
沖縄の病院のうちなーんちゅの緩い感じが、やっぱり自分と合うし、この雰囲気がしっくりくると思いました。
沖縄で、毎日心穏やかな生活をしていると自然と心が満たされました。
家族、友達、楽しい職場、充実した日々を過ごすことで、私は少しずつ自分のことが好きになっていきました。
自分で、自分自身を幸せにすること自己肯定感も上がっていきました。
そして、約10年間続けた看護師を2020年5月31日付けで退職しました。
続く〜